レイ・ブラッドベリの華氏451度(のハヤカワから出ているヤツ)を読んでいて個人的に気に入った台詞があったから徒然なるままに引用してみる。
国民には記憶力のコンテストでも与えておけばいい。それもせいぜい、流行歌の文句、州政府の所在地の名でなければ、アイオワ州における昨年度のとうもろこし生産量はいくらといった問題がいい。
不燃焼の資料を頭にいっぱいにさせ、うんざりするほど<事実>を詰め込んで窒息させてしまうことだな。
<中略>
そうこうしているうちに、国民はそれぞれ自分も相当の思索人だと思い込んでしまう。動きもしないのに、動いているような気持ちを意識してくることになる。それで彼らは幸福になれるのだ。なぜかというと、その種の事実だけなら常に変化をみることがないからだ。
間違っても哲学とか社会学とかいった危険なものを与えて事実を総合的に考える術を教えるんじゃない。
テレビ室の壁を取り外したり、元通りに組み立てたりするくらいのことは、誰だってできる。そして現代では、こうした連中の方が計算尺で計算したり宇宙現象を方程式で説明したりするやからより、ずっとずっと幸せに暮らせるものだ。
華氏451度は焚書によって本は消え、テレビやラジオなどの新しいメディアによって人々は思考力や記憶力を失う、という世界のお話。ちなみにこの作品が書かれたのは1953年。今から60年近く前のこと。
この作品はディストピアの名作として知られているけど、全体主義とか思考統制というよりは、テレビのようなメディアは人から思考能力を奪い文化を失わせるようなことを書きたかったらしく。
どこかの部屋に腰掛けて、テレビの壁を眺めるくらいのことだ。それも眺めるだけ。相手にして議論するわけにはいかんでしょう。なぜかというとテレビジョンは<現実>そのものだからだ。
直接的であり大きさを持っておる。こう考えろと命令してくる。正しいことであるはずだ。そう思うと正しいように思われてくる。あまりにも素早く、あまりに強引に結論を押し付けてくるので、誰もがそれに抗議しておる余裕がない。
”ばばかばしい!”というのがせいぜいのことで。
という直接的なテレビ批判も書かれている。
そうして思考を失った人間として主人公の妻が描かれているのだけど、その失いっぷりがなかなかに迫真に迫っていて面白い。
そういえば前に主人公の妻に似た雰囲気の女性に会ったことがある。興味を持って1時間くらい話し込んでみたのだけど、会話をしているようでいて実は言葉が行き違いになり続けて最後は狐に化かされているような気持ちになった。不可思議な体験だった。
世の中には思考をするのが好きな人もいれば、好まない人もいる。
先日、書店で虚数がよくわかるという本を立ち読みしている時に思った。家でお笑い番組を見ているのと、書店で虚数の本を立ち読みしているのとで、何が違うというのだろう。私は有意義なことをしているつもりかもしれないが、冷静になってみるとその2つの間に価値の違いがあるとも思えない。
ニュースで毎日のように溢れ出てくる<事実>とやらを頭に入れるのも、書店で虚数やらデフレやらHaskelやら雑多な知識を頭に入れるのも、どちらも不燃焼の資料で頭をいっぱいにすることに変わりはないのではないか。
思考を放棄しようが、学習と思索に励もうが、自分は天才だと思おうが、無知であることを知ろうが知るまいが、それで何かが変わるというのか。
なんてことを思索させられたりしてみた。
ちなみに我が家にはテレビがない。
どうして持ってないか理由を聞かれた場合、私は「時間を無駄にするから」と答えている。テレビはぼーっと見ているうちに2〜3時間を費やすということが平気で出来てしまう。個人的にはその時間を読書やプログラミングに回したいと思っている。
でも、そんなのは後付の理由で、おそらく私もテレビが嫌いなのだろう。
人間の嫌悪は理由よりも先に発生するものという説があるそうだ。理由は嫌悪の発生した流れをそれっぽく説明出来る言葉を後付けするものらしい。
であれば、単純に「嫌いなだけ」と言った方が良いのではないかと思ったり。
「あんた、幸福なの?」