2010年04月04日

日記的なもの

副業の依頼を1つ断ってしまった。胸が痛い。

しかし見積りより大幅に安い金額で依頼されて、且つ瑕疵担保責任等のリスクが発生する案件。しかも1人では負い切れないので複数人でプロジェクトを進めないといけない。

まともにやれる自信が全くなかった。リスクがなく1人でこなせる案件ならあの値段でも受けたのだろうけど。

イマイチだと思った案件でも、やれば必ず為になるし、何もしないよりは何かをやった方がいい。だから惜しいとは思った。でも、今は文章の方もあるし、割の悪い死地に自分から突貫する必要はないだろう。

と、胸が痛いので一生懸命言い訳してみる。



最近思ったこと。「これはダメだよねぇ」と言うことは誰でもできる。でも、その解決策を提示して周囲を納得させるのはなかなか出来ない。

例えば飲酒運転をして事故を起こしたというニュースが流れたとする。それに対して「飲酒運転はいけないことだ」というのは誰でもできる。

「いけないことだ」と言ってそれが減るなら良い。でも、現実問題としてそれでは飲酒運転は減らない。それでは意味がない。

何かが悪いと思った時は、常に解決策を頭に描くようにしたい。そうすれば見えなかったものが見えることもあると思うから。



流しそうめんを頭の中に思い描いた上で、サービスというものに思いを馳せてみる。

箸とつゆを手に「そうめん流れて来ないかなぁ」と待ち構えているユーザがいる。テレビはそこで「番組」を流す。Twitterはそこにフォローしたユーザの「つぶやき」を流す。ユーザはそこに流れてくるそうめんを食べる(視聴・閲覧する)。

Twitterはテレビより少し面倒で、何百万本とある竹の中から数本を選ぶ作業が最初に発生する。但し、選んだ竹はその場で合成されて、その竹に流れるそうめんを一度に摂取できる。

もし私が何かサービスを作るとしたら、どんなそうめんを流そうか。どんな竹を提供しようか。

理想は「ユーザ行動分析」から、「勝手にユーザに合うコンテンツを発掘」して、「垂れ流し」を発生させ、その流れるそうめんに対するアクションを持って「垂れ流す内容を再教育」という辺りになるのだろうけど。

10年後のテレビとか、実はそんな風になってるんじゃないかという気がした。チャンネルという選択肢はユーザの手元に残っているけど、流れるコンテンツがユーザごとにカスタマイズされていて、スポーツ好きなユーザには8チャンネル中スポーツ関連が4チャンネルを占めるとか。

パソコン上の動画配信を利用して、ネットテレビ局みたいなものを作る動きも増えていそう。それぞれがお気に入りの動画を24時間のタイムライン上に配置してユーザに提供する行為が一般化し、たくさんの視聴者を獲得できるプログラムを作った人間は多額の報酬を得るようになる感じ。

十分な帯域さえ確保できるなら、そのうちYahooのトップページが動画になる日もあるんじゃないかと思ったり。いや、さすがにそれはないか。



過去20年のリーガ・エスパニョーラの優勝チームってどんな分布になってるんだろうと思って調べてみた。

バルセロナ:9回
レアル・マドリー:7回
バレンシア:2回
デポルティボ:1回
アトレティコ・マドリー:1回

2強が制す確率が8割。それ以外のチームが優勝するのは5年に1度くらいの確率。今年も既に優勝は2強のどっちかになることがほぼ確定している。それでもリーガは盛り上がって、物凄い大金が動いていたりする。

チーム力が拮抗してなくても、スポーツは盛り上がるものなんだよなぁ。

例えば格闘技で、攻防優れた2人がテクニックを見せ合いながらも攻め切れずに終わった試合と、両者の実力差がはっきりしていて1ラウンドであっという間にKOという試合、2つを並べると後者の方が一般層への受けはいいのだし。



この動画が面白かった。

赤ずきんと健康
http://www.youtube.com/watch?v=FI452L8bpkw

なんだろう、この中毒性。ミュージカルをイメージしたものだとは思うのだけど、僅かずつ何かがズレていて、そのズレが心地良いのだろうか。

世の中には期待通りの展開というのがあって、それは正統派のストーリーになる。でも、期待を僅かに裏切るとそれはギャグと呼ばれるものになる。

ギャグはツッコミを混ぜると「ジョーク」として受け取られるけど、ツッコミなしで「それが当たり前だ」という方向で突き進むと「シュール」として受け取られるようになる。