2011年05月28日

日記的なもの

最近は以前と比べると時間に少し余裕がある。今週末も2日ともオフだし。

オフがあると、冷静に自分のことを考える時間が取れる。冷静に自分のことを見ると、とても中途半端な人間の姿が浮かぶ。

現場レベルでは十分だけど、ハッカーとは呼べない程度のプログラミング能力。プログラムの知識とセットであれば仕事が取れるけど、単体では使い物にならない文章力。ツテがあれば開拓はできるけど、飛び込みで結果が出せるほどでもない営業力。

このままじゃイカンよなぁとしみじみ思う。イカンよなぁ。



盲目の時計職人という言葉を知らなかったことから自分の教養に疑問を抱いたので、対策として死に至る病を購入してみる。

一見、原因と結果が正しく結びついてないように見えるけど、実際にはそうではない。なんらかの欲求が生じた時に、満たすべきはその欲求の正体であって、その原因ではない。また、原因を満たそうとすることは、必ずしも欲求を満たすことと等しくはない。

つまり本件においては、欲求の正体は漠然とした「知」であり「教養」である。それを満たす中でもっとも手近で今後利用価値がありそうなのが、それであったということである。

これは多くの人が誤りやすい点でもある。原因とは問題の投影でしかない。問題がイデアだとすれば、原因は影のようなものである。我々が挑まなければならないのは問題そのものであり、それを見誤れば、影に振り回されて無用な徒労を強いられることになる。

なんて大層な言葉を使ってみたけど、こうやって知識欲に駆られて枝葉を広げていった結果が、今の中途半端の素になってんじゃないんかねぇ。



まぁ、そんなわけで死に至る病。さっそく100ページくらい読んでみた。

理解できない部分(根づいているキリスト教的な考え方とか)はどうせ理解できないので、そこを読み誤ることは特に恐れないことにする。その上で、自分なりの考えで読み進めていき、人間の本質的な部分に関する記述を楽しむようにしていると、けっこうライトで面白いと感じられる。

ちくま学芸文庫から出てるヤツを買ったのだけど、訳も平易だった。

全力をあげて、自分自身の力で、ただひとり自分自身の力だけで、絶望を取り除こうとすれば、そのとき彼は、なお絶望のうちにいるのであって、自分では全力をふるって努力しているつもりでも、努力すれば努力するほど、ますます深い絶望の中へもぐり込むばかりである。
世間で実際に云々されるのは、ただ知的ないし美的な偏狭さ、すなわち、どうでもよいことだけであり、しかもこのどうでもよいことが、世間ではいつでもいちばん問題にされるのである。つまり、どうでもよいことに無限の価値を与えるのが、世間というものなのである。

高校とか大学の頃に読んでたら、けっこう影響されただろうなぁと思う。



最近、気晴らしに漫画を読むことが増えた。主にRentaで適当なのを借りて読んでる。

今のところ気に入った作家さんは、秋★枝さん、柳原望さん、千川なつみさん。

秋★枝さんの絵は見てて癒される。表情豊かだし。柳原望さんはストーリーの作り方が勉強になる。取材した内容を取捨選択しながら短いページに詰めるって、すごく悩ましいことだと思う。千川なつみさんはSweetでTLを書いてるけど、フラッパーとかで書いたら面白いんじゃないかなぁと思ってる。

漫画をいろいろ読んでいると、昔と比べてレベルって上がってるなぁと思う。デッサン上手い人多いし、シナリオはちゃんと整えられているし、コンセプトもしっかりしているものが多い。

どの業界でも、世の中いろいろレベル上がってるよなぁって思う。

100年後の人間から見たら今の自分たちってのは、賢いながらもところどころに無知な点も内包する近代人として見えるのだろうな。

「100年前は人類はExabyte程度の情報を叡智と呼んでいたそうです」「Exabyteって、今時携帯でもZettabyteなのに(笑)」みたいな。



世の中が多夫多妻制に移行すればいいのに、ということをよく思う。

多夫多妻制になると、いい男はたくさんの女性と付き合うことができ、いい女はたくさんの男性と付き合えるようになる。

私のような合コンに何度も行って、たまにお友達になれたとかで喜んでいるような人間は、おそらく今より数段ハードルが高いと感じる世の中になることだろう。

でも、それでいいというか、なんか不自然に感じるんだよね。一夫一婦制というのは。

なんでだろう。自分自身は、自分の中の生物らしい活動を嫌っているはずなのだけど、同時に生物の進化というのをすごく美しくて神聖なものだと思ってる節がある。

で、進化とか淘汰を考えた時に一夫一婦制は(まるで現代の特許制度のように)進化を阻害するものとして目に映っているのかもしれない。