学習したことが腑に落ちるまでには時間差がある。学習から習得までの状態遷移は、だいたいこんな感じになる。
知らない → 知識としては知っている → 意識すればそれを利用できる → 無意識に利用できる
自転車の乗り方を例に取ってみると、何も知らない状態から、まず知識として乗り方を教わり、意識すればよろよろ前に進める状態になり、最後には何の意識もせずに自然と乗れるようになる。
多くの実践的な知識についてもこういうところがあって、知った後、しばらくは意識してそれを利用しないとなかなか身につかないことがある。ブラインドタッチなどはその典型なんじゃないだろうか。
プログラムでも文章でも腑に落ちるまではけっこうたいへんだったりするけど、それがストンと落ちた時っていうのはけっこう気持ちがいい。
根拠のない恐怖について考える。
たとえば夜中にホラー映画を見た後、電気を消して寝ようとすると、そこに何かがいる気がして眠れなくなったりする。映画が作り物であることは重々承知しているのだけど、それでもやはり怖いと感じる。
こうした反応を見るに、恐怖とは感覚的なものであって理知的なものではないようだ。
恐怖というものが人を操作する時にいろんな利用され方をしているのは、そういう性質に寄るところが大きいのかもしれない。利でそれが分かっていようがいまいが、なんらかの影響を発生させることができてしまうのだから。
「この人、バカだなぁ」と思う人を見かけた時に真っ先にやらないといけないことは、その人をバカだと笑う前に、自分自身もバカの仲間ではないか疑うことなんでないかと思う。
その行為を自分に当てはめてじっくりと考えてみると、意外と多くのケースで、自分も似た傾向のバカさを持っていることに気づく。
時に長く付き合っている友人は、私以上に正確に、私が抱えている欲求を言い当てることがある。
「私のことは私が一番良く知っている」と考えるのは、おそらく誤った認識だろう。であれば「私は私のバカさに気づいている」などと考えるのも過信でしかないのだろう。
最近ずっと我が家の構成はFedoraで揃えていたのだけど、一般的な世界に戻ろうと思って1台だけUbuntuにしてみる。
久々に使うと違いに戸惑うことも多い。さすがにapt-getの使い方くらいは忘れていないけど、設定ファイルの場所とかかなり怪しい。etcの下とか割と別世界。えーと、/etc/sysconfigはどこですか?
RedHat系もDebian系もどっちも仕事で使う可能性がある代物なので、適度に両方触っておこうと思う。
人は自身がある種の集団に属していると知覚する。そしてその集団の中での関係や地位に対してこだわりを見せる。
私は職場やプライベートでの関係性というものに、あまりこだわりを持っていない。まぁ、独身の自営業者だからね。どこかの集団に対して所属意識を持てって言われても難しいよね。
ただ、人は群れ社会で生きる動物なので、どこかに所属していると知覚しないと生きていけない。どこにも所属できてないとか、所属していると認識している集団から無視されると、人間はだいぶ壊れやすくなるらしいし。
その中で自分が所属しているのは「プログラマ」という集団だと思われる。それはイメージというか、漠然とした集団ではあるけど、自身がそこに所属すると知覚さえしていれば、精神的な安定は保てる。
自分が無い頭絞ってTIPSとかネタとか書いてるのは、それがプログラマという集団に対する帰依になると知覚しているからだと思われる。これは一種の宗教だね。
あと、自分は昔ルームシェアをしていたことがある人を擬似家族として認識しており、その人との関係性にはこだわりを見せることがある。
どちらも「それへの帰依が自身に対する経済的、もしくは知識的な面での利得に繋がっている」ことは確認できているので、当面はこの宗教への傾倒を改める必要はないように思う。ただ、状況の変化によってはそれが利得に繋がらなくなる場合もあるので、盲信はしないように気を付ける必要がある。
などと考えていると、柄にもなく擬似家族に対する贖罪の念を覚えた。こういう感覚はけっこう人間らしくて良いな。