2011年07月02日

日記的なもの

今年も暑くて寒い夏が来た。

今年は節電の年らしいので、暑さに慣れておこうと思って事前に身体のカスタマイズをしておいた。その結果、今日は室温が33度まで上がったけど割と平気だった。というか割と涼しかった。

ところがそのカスタマイズによって仕事場で弊害が起きている。お世話になっている会社の多くは社内の設定温度を28度にしているらしいのだが、33度仕様にカスタマイズしてしまった自分の身体にとっては、湿度の低い28度は極寒になる。

というわけで、今年も結局、冬用のコートを被って仕事をしている。

なんだよ、せっかく暑くなるって聞いたからカスタマイズしたのに意味ないじゃん、なんていう拗ねた気持ちがふつふつと湧いてきたりもする。



多くの物事は常に真実であるとは限らない。

たとえば1年前に自分が最良だと思っていたブラウザと、現在最良だと思っているブラウザは違う。

子供の頃に教えられたことの多くは、その時点では真実だったのだと思う。でも、あれからもう20年も過ぎている。それが今も真実であるかは再度検証してみないと分からない。

歴史や科学の教科書にも、いろいろ改訂が入っていたりするのだろう。

真実は時間軸と紐づいており、時間軸のパラメータを変えると真実も変化する。

どれだけ確信を持って「真実だ」と認識したことでも、「その時の真実」として見ないと足下をすくわれたりするんだろうな、なんてことを思った。



自分自身における真実も、時間軸のパラメータに紐づいている。

人間は自身に対して何かしらの定義を行っている。暑いのが苦手だ。歩くのが好きだ。仕事が好きだ。

私も自分自身に対していくつかの定義をしている。文章を書くのが好きだ。会話をするプログラムを作るのが夢だ。怠惰な人間は嫌いだ。などなど。

こうした定義を行なっておくと、自身の行動に指向性を持たせることができ、何の定義もない状態よりも行動が定まりやすくなる。

しかしこの定義もやはり時間軸との関連を持っており、時間た経つとそれが変異する場合がある。

たとえば子供の頃に「私は焼肉が好きだ」という定義を持っていたとする。これが歳を取るにつれて油っぽいものが苦手になり、やがては嫌いな食べ物になる、といった流れは良く見られる。

たとえば私は「生涯プログラマとして生きる」という定義を意識しているけど、もしそれ以上に自身にも他者にもプラスになる選択肢があるのなら、盲目に「そういう定義だから」と切り捨てずに、じっくりと考慮することも大切だろう。

今のところはそんな職業は思いつかないけど。

というわけで、全ては時と共に変わるのだから、自分自身に対しても盲信することなく再チェックを忘れないように気をつけたい。



定義の数は増やし過ぎないに限る。

その気になれば定義はいくらでも増やせる。

私は犬よりも猫が好きです。私は歯ブラシは電動歯ブラシじゃないと嫌です。私は食事の時、最初に炭水化物から手を付けます。私はこの枕じゃないと眠れません。私はこういう人間です、私はこういう人間です、私はこういう人間です……

定義は指向性を生むけど、同時に束縛も生む。定義を多く持ち過ぎると、指向性同士が衝突を起こしてどこにも進めなくなる。

理想的な定義の数は2つ、ないし3つくらいなんじゃないかと、なんとなく推測している。

私はまだまだ何かと不要な定義を持っているので、もう少しそれを減らせるようにしてみたいと思っている。持つのはこの一意のみ、みたいな。でも1つだと修正が必要になった時が面倒なので、2〜3個で。



トンボが言った。「欲の皮突っ張ってると、ろくなことねーぞ」

カラスが言った。「欲の皮突っ張ってるから、毎日が面白くなるんじゃねーか」

欲というのは育てないとなかなか強くならない。

貧乏だった頃はお金をもらえるなら頑張ろうというモチベーションになったけど、ある程度の貯金ができてくるとそれだけでは動けなくなる。

私がプログラムを組むのは、私のある種の欲のお陰だと思う。この世界は欲を刺激するものが多くて助かっている。

でも、まだまだ欲が足りないなぁとも思う。