ブログにfaviconを置いてみた。特に意味はない。たまにお絵描きがしたくなる時があるようだ。
あまり気に入った出来にはならなかったので、しばらく放置してみて馴染まなければひっそりと消してしまおうと思う。
そういえばいつかブログのデザインを直すとか言ってからどれだけ時間が経ったっけか。
オープンなデザインをいろいろ試したりとかはしてみたんだけど、いざ適用しようとするとけっこう作業が必要で、途中で手が止まってしまう。
まぁ、いつかやろう。いつか。
ブログに書く記事はどんな内容が良いのだろうか、なんてことを少し考えた。
最近はマイナーな情報を取り扱うのが心地良いと感じている。マイナーなジャンルは取り扱っている人の母数が少ないので、既に情報が十分に出回っているメジャーなジャンルよりも、その情報を必要としている人にとってプラスになる確率が高い。
例えばWikipediaのデータファイルについてとか、Mecabのコストに関する説明とかは、だいぶ前に書いた記事だけど、今でもちょくちょく参考にされているようだ。
冗談を書く事を期待されてるところもあると思うのだけどね。最近は今ひとつそういう気持ちになることが少ない。文章に訴求力を持たせたいと思うことがあれば、そういうのもまた書くのかもしれないけど。
冗談について。
私はツッコミなしでボケ倒すのが好きだ。というか、文章を書く場合はどうしてもそうならざるを得ない。
文章というのは1人で書くものなので、ボケとツッコミを行なおうとすると自然と「1人ボケ、1人ツッコミ」を展開することになってしまう。
アレは芸風としてはありだと思うけど、使いこなすのが難しく寒い結果になることが多い。
映画で言うとチームアメリカみたいな感じが理想的。ツッコミなしでボケにボケを被せて、どこまでが本気でどこまでがボケなのかその境界線すら危うくなるようなあの感じ。
自分自身が誤っていることを知っている人間は、自分自身が誤っていることを知らない人間よりも賢い、などとソクラテス風のことを言ってみる。
人間の能力なんてたかが知れてるもので、100%正しい判断なんてできない。それは脳の構造的に無理。
日々の生活で行う判断(簡単ではあるが母数が多い)や、一定レベル以上の複雑さを持つ事柄に対する優劣の判定(確実に判断できるだけの十分な情報が得られない)などでは、間違った結論を導きだしてしまっていることも多い。
なので「私の判断は正しい」とか「私の意見は正しい」なんてことを思うのではなく、正誤についてはもう少し緩く意識しておいた方が適切なのではないかと思う。
「今、私が行なった判断は合っているように感じるが、それは間違っているかもしれない。しかしそれでは話が進まないので、便宜的に私の判断は正しいと考えることにしておく」
コミュニケーションの話。
コミュニケーションを取りたいがために醜い行動に走るケースっていうのはけっこう多い。顕著な例は、誰かにかまってもらいたくて取る行動とか。
また、それによって時間を浪費してしまうことも多い。
コミュニケーションを行うことが必要であるなら、それを自分の役に立つ方向に持っていった方が良いと思われる。例えば役に立つ情報を仕入れるために人と接するとか、困っている人を見かけた時にその人を助けるために行動するとか。
そうすれば同じコミュニケーションの希求によって生まれた行動でも、少しは有意義なものになる。
なんてことを数年前から突き詰めていたところ、必要がないと人とコミュニケーションを取らなくない人間になってしまった。これはこれでどうなんだろうとは思う。
今年はもう少し能動的に人と接するようにしてみよう。
コミュニケーションの例だけでなく「自分にとってそれが必要なら、せめてこういうやり方にしよう」という考え方はけっこう便利。
例えば「どうせゲームをやるなら北米版をやろう」というのをやったら意外と英語を読む能力が上がったとか、「どうせ飲みに行くなら、普段会わないような人と行こう」というのをやってたお陰で他業種に対する知識が少しはついたとか。
毎日机に向かって勉強、なんてことを出来る人は少ないので、気力が湧かない時はせめて遊びの一部に勉強を侵食させておくとけっこう効果があるもんだなと、そんなことを思った。