2012年02月19日

日記的なもの

こんなの書いた。

H2+Lucene+形態素解析で全文検索しようとしたメモ
http://www.mwsoft.jp/programming/lucene/lucene_h2.html

結論としてうまくいかなかったけど、この手の情報を必要としている人もいるのではないかと思ったので、とりあえず貼っておく。

先週は上記のこと戯れているうちに過ぎてしまい、ノルマを果たせず。まぁ、勉強にはなったからいいや。

今週からは確定申告の準備を始めるので休業予定。作業の8割くらいは知り合いにお願いして済ませてあるので、今週中にはなんとか終わるといいなぁといった感じ。

さっさと終わらせてプログラミングに戻ろう。



先日、英語の勉強のためにTwitterで「to:luis16suarez」(ルイス・スアレスのアカウントに対するTweet)を検索して眺めてみた。

そこでYNWAという言葉が出てきた。You'll Never Walk Aloneの略でリバプールの応援でけっこう使われているフレーズらしい。昨年の震災の際に海外からの応援メッセージでも使われていたとか。

もっと罵詈雑言で溢れているかと思ったけど(もちろん罵声もいくらかあった)、意外と応援の声が多かった。

このへんは日本だともっと酷い言葉で溢れる気がするのだけど、リバプールというチームの特性か、それとも国民性か。

事象に対するポジネガ判定を行った場合の国民性の違いとか、見てみたいと思った。短文に対する精度の高い各言語ごとのポジネガ判定器なんてあるのかという話だけど。

私は世の中がもう少し好意で溢れている方が好きだな。叱ってばかりいると子供は小さくまとまってしまうから。



最近は英語の勉強のために洋画を英語字幕で見たりしていたのだけど、さすがに映画も飽きてきたのでアニメなどに手を出してみる。

自分が好きなアニメというとこれだろうなということで、Absolute Destiny Apocalypseとか言ってる少し昔のものを購入。

どうやって訳すんだろうと重っていたところをいくつか。

Do you know. Do you know. Do you know that?(thatのところはthereとかreallyとかいろいろ変わってる)

Grant me the power to bring the world revolution!

Sunlight garden

あと「○○様」と呼ぶシーンは「Miss ○○」と呼んでいた。「Lady ○○」と呼ぶケースもあるよね。

しかし日本語が英語になるだけでも印象って結構変わるんだけど、声が変わるとさらに変わりますな。主人公がけっこう落ち着いているように見えたり。



8割の売上は2割のお客さんが生み出してる、みたいな表現でお馴染みのパレートの法則。

ゲーム産業ではこれまで、1つのタイトルにおける売上にパレートの法則が適用されることはなかった。1本のゲームの値段っていうのは定価が決められていて、8,000円で売りだされていたらそれ以上の金額で購入されることはないので(多少高価な限定版とかはあるかもしれないけど)。

ところが課金制ではパレートの法則的な現象が起こりうる。つまり、一部のヘビーユーザが全体の8割の金額を支出してくれるような現象が。



CDもまた熱狂的なファンの支払う金額がそれほど伸びなかったジャンルだ。定価が決められており、観賞用と保存用と布教用を買うような熱烈なファンでも他の人の3倍の支出にしかならない。

ところが最近はそれを覆す方法が導入された。アイドルの握手券や人気投票券を付属させることで、「有り金叩いて何枚も買おう」という層を生み出す手法だ。

自分が好きなものの為ならいくらでもお金を使う層というのは存在する。そうした層を取り込めてなかった業種でそれを実現する手段が今後も生まれることが予想される。

個人的にはゲーム産業で「コンテンツをユーザが作成できるプラットフォームを作り、その収益の一部が運営元に納められる」モデルがうまく展開されれば面白いんじゃないかと思っている。(例えばドラクエの追加ダンジョンとか、アイマスで追加の衣装を、ユーザが作って販売するような)



欠落がある状況を埋める、というのは1つの社会的な行為。

例えばとある会社に足りていないスキルを持っている人間が、その力を活かして業務を支えるというのもその1つ。例えば父性(もしくは母性)を求めている異性に対して、それを与えることもその1つ。

何か欠落がある場所に1つのピースとして入り込むと、落ち着いた気持ちになる。逆にそうではない状況、欠落がない場所でやることもなく過ごすことは辛いことだと感じられる。

それは社会が成り立つための1つの必要な習性なのだろうか。



以前、国という名のコンテンツは売れるみたいなことを書いた記憶がある。日本代表 vs ○○代表の試合で日本が勝つとなんか嬉しいみたいな感情は、多くの国民に起こり得るもの。それが例え興味がないスポーツの競技であっても、国という名が関わると興味を持つ層がいる。

自分が属している集団の勝利を願う。これもやはり1つの社会を成り立たせるための習性のように見える。個々が集団(社会と呼んでもいい)を強くすることを望まないとしたら、社会はうまく発展しないだろう。

歴史の中で集団のぶつかり合いによって、民族が発展したり衰退したりといった現象は多く見られた。

そうした中で、社会を大きくする性質を持ったタイプの人間が多く生き残り、逆の人間は少数派になったのなら、人がそうした性質を持っていること自体は不思議でないことのように思う。