夏が来たので、我が家のHadoop環境を解体する。電力問題とかもあるけど、暑いというのが主因。
この部屋は8月になると35度を超えることもあるので、ろくに放熱に気を使ってないマシン達を常時稼動させると危険。
涼しくなるまでHadoopの勉強は休止。当面はMeCab、KyTeaなどと親しくしてみようと思う。
最近、よく夢を見る。その夢があまりにリアルで、現実と夢の境界線が不明瞭になることがある。
私はいったい誰だっただろう。
同じ人間と長く触れていれば、その人の中にある私の記憶を意識することで、私が誰かを認識することができる。けど、1つところに落ち着かず、仕事も住む場所も転々としている人間は、過去の自分というものをどう認識すればいいのだろう。
私はいったい誰だっただろう。今はそれが、思い出せない。
しかしそれはおそらく重要なことではないのだろう。新しい仕事を始めれば、そこに応じた私が形成されるだろうから。
私は人間を学習器として見ているところがある。
インプットに対してアウトプットを返す。アウトプットの結果から発生したと思われる事象を解析し、善し悪しを自動で学習する。
たまにその因果関係を見誤って、まったく関係のない事象を「悪し」として判断してしまうところがある、ちょっとお茶目な学習器。
どういったインプットがあり、どういった学習を行なったかでその人間の性質は変わる。生まれる前の段階である程度の性質は決められるが、大半の性質は生後成長する過程で獲得する。
人間だけではなく、オケラだってミミズだってアメンボだって、同じ学習器だ。それらの動きを見ていると、人間と大きく違う部分はないように見える。インプットとアウトプット。形状や記憶領域の違いはあるかもしれないが、基本は同じ。
時々、私は自分を何かにたかる虫のように感じることがある。ある種の情報にたかる人間の集団というのは、虫に似ている。何らかの情報(たとえばNLPとかプログラミング言語とか)に過剰に反応する私は、おそらく理性とか知性なんてものとは遠く、砂糖水に集まるアリと同じようなものなのだろう。
違法ダウンロードがどうとかいう報道を見て、そういえば私は逮捕されることを覚悟していなかったなと思った。
明日死ぬことは覚悟した上で毎日生きているつもりだけど、明日、自分がヨーゼフKになることについて覚悟はしていなかった。これは盲点だった。
世の中というのはそういうもので、ヨーゼフKになって死罪を言い渡されるかもしれない。グレーゴルになって家族からリンゴを投げつけられて死に至るかもしれない。暑かったからムルソーに撃たれて生涯が終わるかもしれない。
それらはそれほど不思議なものではない。そんなことは世の中で星の数ほど起こっている。
私は不条理を愛している。であれば、自分の人生が不条理に終わることも愛さなければいけないだろう。理由なく意味なく死んでいくことも、雪深い山奥で孤独に死んでいくことも、どちらも自然なものとして受け入れる必要があるだろう。
この世界は今、ある種のルールの上に成り立っている。そしてそのルールから外れた現象は、不条理と呼ばれ厭われる存在になっている。
偶然というのはいつだって不条理なものだ。どれだけ厳密なルールを定めたって、明日あなたが意味もなく死ぬことに変わりはない。
そうして起こる全ての事象を、受け入れ愛せる程度の器量は持っておきたいものだ。