個人的にはエリファス・レヴィを思い浮かべる。1800年代の著名な魔術師で、一般の人でも理解しやすい魔術に関する入門書を残していることから、現代でも彼のお世話になっている人は多い。
氏は「高等魔術の教理と祭儀(祭儀編)」の冒頭で、こう述べている。
超自然的現象とは、一般的でない自然現象、飛躍したかたちの自然現象に過ぎない。たとえば奇跡という現象が一般大衆を驚かせるのも、それが思いがけない事柄であるからだ。
<中略>
要するにその原因を見抜けない連中が、実際とそぐわない原因のせいにおしつけてびっくり仰天する事柄を指して言うのである。無知な連中にとってしか奇跡は存在しないわけだ。
ところが完璧な知識を備えた人間というものはまず存在しないが故に、現在もなお奇跡は存在し得るし、それも万人にとって存在するのである。
魔術というと非現実的なものに思われるかもしれないが、このように奇跡を定義すると、それは私たちの生活にも今なお存在することがわかる。
ハッカーは信じ難いコードを書く人間を、敬意を込めて魔術師(Wizard)と呼ぶ。しかし魔術師と呼ばれた本人は、自分をWizardと呼んだりはしない。相手から見れば奇跡のようなコードでも、書いた当人にとっては、理解の範疇にある当然のコードだからである。
いろんな意味で敷居の高い話をして読者層を絞ったところで、話を少し一般的な方向に進めよう。
万能ではない我々は、日々の生活の中でこんなことを思う瞬間がある。
「どうしてこんなことになったんだ」
「なぜこんな制度になっているのか」
「このようなことをする人間のことは理解できない」
こうした「どうして」「なぜ」「理解できない」といった言葉の並びは、ほぼすべて、自らの無知の証明である。
世界はきちんとルールに基づいて動いており、目の前で不可思議な現象が起きたとしても、それは万能であれば予測しうる事象である。
「どうしてこんなことになったんだ」
そう思ったとしたら、私のこの世界に対する知識がそれだけ不足していたということだろう。
また、他人の性格が理解できないという事象も、万能であれば起こり得ない。
人は失敗や成功体験の積み重ねの中で教育された脳細胞を持ち、その判断によって行動する。相手の性格は、ある種の教育パターンを再現すれば類似した存在が作れるものであるはずだ。
ジョーカーの格好をして銃を乱射するタイプの人間も、サッカーの見過ぎで過労死するタイプの人間も、パターンによっては発生しうる。言い換えれば、同様の方向性に教育されるパターンを自らに施せば、ほぼ同様の性格に自身を変容させられる可能性がある。それが人間だ。
そうした人間への理解を深めていけば、相手の性格を理解できなくなることなど、なくなることだろう。
子供の頃、教育テレビの科学番組を見て、不思議に思ったことがある。
液体の色が変わった瞬間。磁石が飛び跳ねた瞬間。泡が吹き出した瞬間。
これらの理解できない不思議な事象は、その美しさから魔術的な性質があるものとして扱われる。コーラにメントスを入れることだって、演出によってはある種の魔術性を有したものとして人からは受け止められることだろう。
そうした理解できない不可思議な現象と、日常で感じる「なぜこうなってしまったのか」「どうしてこうならないのか」「理解できない」といったストレスは、同じ「無知」という起点からスタートしている。ただ、それが美しさを含まず、逆に嫌悪や煩わしさを醸成する為に、魔術的なものとはまったく違った扱われ方をする。
私はもっと、そうした理解できないものたちを愛するべきではないだろうか。理からも利からも離れていると私からは感じられる事象に含まれる、当然さ。嫌悪を感じる存在に対する、もう一方から見た際の真っ当さ。もっと私自身の認識できる範囲を広め、それらを魔術的なものにせず、自らの範疇に置くことができるよう努めるべきではないだろうか。
そう努めていれば、いつか私はすべての魔術的な事象も、すべての不条理とも言うべき事象も、ともにただ当たり前のものとして受け止められる日が来るのではないだろうか。
ふむ、今日の日記は随分と怪しい内容になったな。
「相手のことを理解できないと思うのは早計」とか「嫌いなものだからといって知らないまま終わるのは良くない」みたいな戒めについて書こうと思っていたのだけど、どこで間違えたのか。
冒頭にエリファス・レヴィを持ってきたのがいけなかった気がする。マグレガー・メイザースにしておくべきだったか。