2013年07月28日

日記的なもの

猛暑対策としてサーキュレーターを購入。扇風機の直接の風ではなく、部屋全体の空気が循環するように回した方が良いだろうと思って買ったのだが、これが思ってた以上に良かった。

今日は室温が34度まで上がったのだけど、エアコンなしでもやり過ごすことができた。夕方以降は風の向き先を「内 → 外」に送ることで、室内より温度の低い外気を取り入れる役目も果たしてくれる。

夜は暑いと眠りが浅くなってしまうのでエアコンを付けることもあるけど、日中は余程の猛暑日でもない限りはサーキュレーターで乗り切ることができそうだ。



高尾山から帰宅後、臀部の筋肉痛が酷い。このあたりが普段使ってない筋肉だということなのだろう。まぁ、確かに日常生活だと使うシーンが見当たらない。

昔の信仰では、山には神が宿るという考えがよく登場する。確かに山に行くと、「厳か」というか「雄大」というか「壮厳」というか、そういった感覚を持つことがある。高尾山に対しては特になかったけど、信州の山に行った時に少しそういったことを感じたことがある。箱根でもあったな。

昔の人がああした風景を見て、神様という言葉を感じたとしても特に不思議には思わない。現代の人間にも十分に起こりうる感覚だろう。トトロの風景とかは類似したものの1つだろうか。

つまり人間にはそうした感覚が起きる何らかのパターンが存在するということなのだろう。神聖なパターン。荘厳なパターン。山というパターン。



最近の日課

1. 絵の練習(1枚)
2. 英語のニュースを1つ読む(辞書を使うこと)
3. TEDを1つ見る
3. 詰将棋(将皇Android版のヤツ4つ)
4. Playのサンプルコードを書く
5. 駄文を書く

残った時間は遊ぶ。英語のコミックを読んだり、英語のゲームをやったり、日本語の小説を読んだり。

英語の小説はいまだに読めない。読んでも内容が頭に入ってこない。いつか読めるようになる日が来るのだろうか。

ロデオボーイに乗ってTEDを見るのが最近の日課になっている。時間的にちょうど良い。TEDは今ひとつ自分の中でヒットしたのが少ない。U2のボノのスピーチは雰囲気で持ってかれた気がした。ライオンライトのはちょっとグッと来た。Before I Dieは好き。



煮詰まった時は課題を淡々とこなしていると良い。そうした時期は考えて何かをするのは難しい。決められたことをただこなせばいい。そのうち心が変わることもある。

私は今年、34になった。随分と薄っぺらい人生を歩んでいると思う。こんなことでは生きている意味がないと思えるくらいには薄っぺらい。

どうすればもう少しまともな人生になるだろう。足りないのは何だろう。何を望めば良いのだろう。まだあと25年くらいは生きるつもりでいるのだけど、その時間をどう過ごせば良いのだろう。

別に今日で人生が終わってもそれほど惜しくもない。最近は死に対する恐怖というものも特に感じなくなってしまった。これは問題だ。これまでまだ死にたくないという心がモチベーションに繋がっていたというのに。今の私は惜しむものがないのだろうか。

こうした状態の解決には何をすれば良かったかな。確か何かに対する愛情が効果的だったように思う。強い愛情や執着を示すことで、惜しむ心や行動する心が起きる。



詰将棋について。

最近、詰将棋をやっている。将棋はからっきし弱い。Androidで出ている将皇のレベル1にも負け越すくらいだ。

詰将棋をしているのは、1日に1度、ちゃんと頭を使う時間を作りたいからだ。歳を取ると考える力は落ちて、その代わり経験から考えなくても正しいことが分かるようになる。

でも、経験や直感が嘘をつくこともある。ちゃんと思考を行った方が、物事はうまく運びやすい。たとえばシステム開発における設計なんかがそうだ。ちゃんと「このデータがこう整形されて」とか「こういったUIから操作されて」といった処理の1つ1つを思考の中で動かして、うん、大丈夫だと、ちゃんと動くと確証を取るようにすれば、より精度を上げて手戻りを少なくできる。ほんの10分、真剣に考えれば、それなりのシステムの設計の精度をそれなりに高くできる。

世の中には私も含めて、この一生懸命考えるという工程をサボっている人が多いように思う。もう少しだけ考えてみた方が、得が多いのではないだろうか。将棋でもノータイムでパシパシ指していれば、あっという間に形成は悪くなる。立ち止まって10秒考えるだけでも、随分と手はまとまる。

そうした考える癖というものが付かないものかと、毎日、詰将棋アプリを前に頭を捻っている。思ったような効果が挙げられるかはわからないけど、少なくとも老化防止くらいは期待できるかな。



私は仕事でコーディングをしている時に人から話かけられた場合、コーディングを優先し、会話は遅延評価を用いて成立させることがある。

相手が発している言葉は耳に流しておいて、失礼にならない程度にその場で「そうですね」とか「うーん、どうでしたっけ」などといった当たり障りのない返答をする。何秒かに1度、作業が途切れた段階で耳に残っている言葉を解析して、あたかも時間をかけて考えたかのような素振りで「考えてみましたけど、確かにそうですね」とか「いや、そうではないと思います。確か……」といった言葉を返す。

当然、目はディスプレイに向かいっぱなしで、手元もカタカタとキーボードを叩き続けているので、あまり真剣に会話をしているようには見えないと思われる。使う相手には気を付けないといけない。

ただ、作業を止めることなく人と会話をできるという点では、相手によっては別に使っても良い手法なのではないかと思った。



自分がこうした方法を使っていることに気づいたのはごく最近で、周りと話をしながら同時にコードを書いている時に、ふと自分の頭はどうやってコードと会話を両立させているのだろうと疑問に思った。

で、最初の答えは頭を使わずに適当に答えていて(たまに嘘を答えていたりもする)、後でまとめて返答していることが分かった。コーディングに頭を向けていても、意外と言葉自体は耳に残っているようで、後で流れた言葉を取り戻すことはできる。

前から知り合いが寝ぼけて電話をしてきた時に、片手間で仕事をしながら返事をするといったことをよくやっていたので、それによって培われた能力なんじゃないかと思う。

人間の脳というのはそれなりにマルチスレッドもできる。そうした性能を鍛えることで、学習と作業の両立とか、仕事とコミュニケーションの同時実行とか、けっこういろんなことができたりするかもしれない。できないかもしれない。



10月から仕事がなくなる。あと2ヶ月あるので、適当に次を探してみようと思う。

この1年間、いろんな仕事をしてきた。それなりには稼いだし、それなりには勉強になった。ただ、そろそろ次のステップに行くべき時期だろう。

環境を変えれば、また違ったものが見えてくるかもしれない。違った出会いもあるかもしれない。