そんな時はキルケゴール先生の本でも読んで、息抜きでもするといい。あなたがそれを何だと思うかは知りませんがね、少なくとも慰みの1つくらいにはなるんじゃないですかね。
概要
セーレン・キルケゴールが1849年に発表した、哲学書のような宗教書のような何か。
感想1
1800年代に書かれたキリスト教者向けの本なので、私のような宗教的にも人種的にも遠い人間が読むには今ひとつな部分が多い。2章立てになっていて、1章については汎用性もあるものの、2章については理解しづらい内容になっていた。
個人的には「世間」というものに対する捉え方は面白いと思った。それは全然主題ではないのだけど。
「ただおしゃべりだけをしている人でなしや世間人」は、孤独への要求を感じるどころか、ほんの一瞬間でも孤独でいなければならなくなると、まるで群棲鳥のように、たちどころに死んでしまう。
世間では普通、ただ軽率なことや無思慮なことや無駄なおしゃべりばかりがおこなわれているので、何か少し深刻な話が持ち出されでもすると、たちまち人々はまるでしかめつらしくなって、うやうやしく帽子を脱いでしまうからであろう。
彼らは精神として実在していないのである。彼らの生活は、一種の子供らしい愛すべき素朴さのうちに送られるか、それとも、たあいもないおしゃべりに明け暮れるかであり、少しばかりの行動、あれやこれやのささやかな事件から成り立っている。実に世捨て的な思想だと思う。長く世間と関わらずにいたところに、久々にそうしたものと触れると、こうした感覚に囚われることはある。もちろん、世を捨てているとは言っても、私自身、そうした人間の一種であることに代わりはないわけだが。
感想2
他にも面白い言葉はいろいろ出てくる。
老人は希望の幻想に苦しめられることはない、しかし、そのかわりに、自分では幻想のないもっと高い立場にいるつもりで、この立場から、青年の幻想を見くだすという、奇妙な幻想に何よりも苦しめられるのである。
青年は幻想をいだいている、彼は人生や自分自身について異常な希望をもっている。ところが老人では、自分の青春時代を追憶するという仕方の幻想がしばしば見いだされる。
気絶した人があると、水だ、オードコロンだ、ホフマン滴剤だ、と叫ばれる。しかし、絶望しかけている人があったら、可能性をもっていこい、可能性をもってこい、可能性のみが唯一の救いだ、と叫ぶことが必要なのだ。
自分の破滅を信じるなどということは不可能である。人間的にはそれが自分の破滅であることを悟りながら、しかもなお可能性を信じること、これが信じるということなのである。
文中には絶望という言葉が溢れていて、ごく稀に希望という言葉も出てくる。可能性は確かに1つの希望だと思うけど、同時にその可能性が手に届く場所に来ることは絶望であるとも思う。達成することはさらに大きな絶望でもある。
感想3
これを読んだ後、今、ファウストを読んでいるのだけど、少しだけ博士の性格が本書と被るような感覚になる。
その後に進む方向は、だいぶ違うものではあるけど。